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勉強ができる・挨拶ができる [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

どんなに勉強ができても、挨拶ができない子の将来は不安である。逆に多少勉強はできなくても、挨拶ができる子は将来が楽しみだ。

 人工知能の世の中になるからこそ、本当の人間味がなおさら重要だと思う。人は人でしか結局癒されないからだ。

 「こんにちは」、「ごめんなさい」、「ありがとう」は基本であると思うのだが、正直なところ、これらが言えない子が増えてきているような気がする。そんな子が入塾してくると、それらを言えるよう接していくのだが、小学校高学年にもなると、そう簡単にはいかない。

 以前小学5年生から中3まで通っていた子も言えない子だった。勉強はそこそこできる子であったが、「ごめんなさい」や「ありがとう」は言わない。その子が5年間通っている中で、成績が上がったことより、「ありがとう」と言ったことの方が大きな感動だった。

 どんなに仕事ができる人でも、人とのコミュニケーションが取れないと仕事がうまく運ばなくなる。信頼関係が築けなければ、仕事も頼まれないし一緒に仕事をしようとは思わない。

 長い人生、山あり谷ありで本当に困っている時に一番頼りになるのは人であると私は思う。もちろんそのために他人のご機嫌を取り嫌われないように、愛嬌を振り撒き、挨拶をするのではない。自分自身が自分のために一生懸命生きる中で、仲間に挨拶をし、協力してくれる人に感謝をし、迷惑を掛けたら責任をきちんと取る事だ。

 一生懸命に頑張り苦労をすれば、人の苦労も分かるようになる。だから思いやりの心が生まれるのだと思う。必死に頑張り、色々な体験をして、多くの価値観に出会い、人と共に生きることで人は強くなり、優しさが生まれると思う。

 辛くても、苦しくても、
明日は明日、笑顔で「こんにちは」、「ありがとう」で生きていきたいものだ。

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自分を高める④ 答は出るもの、“答を創らない” [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

塾生にいつも言っていること

「答を考えるな、問題を考えろ」について簡単に書かせてもらいます。微妙なニュアンスが伝わらないかもしれませんがお許しください。

問題→解法(途中式)→解答


本当に出来なくなる子は答を考える。
 答はいくつになるかを考える。だから、問題に書いてある数字を組み合わせて式をつくり、答を出す。問題の意味、問題が何を言っているかは考ええない。

 プリントに「分数の割り算」と書いてあれば、無条件で問題に書いてある数字を使って割り算の式をつくって答を出す。それでできるときがあるので止められなくなる。


成績が上がらず苦しむ子は解法(途中式、やり方)を考える。
 どうやればできるのかを考える。教科書の例題や問題集の解説を見てその通りにやろうとする。または、解説を理解しようとする。解説はその問題の答を導き出すやり方が書いてあるだけのものが多いので、他の問題には使えるかどうかわからない。本当に理解できれば役立つが、なんとなくわかった程度だと応用は利かないことが多い。

 公式を丸暗記して利用することもする。公式は道具である。道具は便利ではあるが、理解していない道具は使い方を誤ることがある。やり方を覚えて解こうとする子は、問題の数だけやり方を暗記することになる。それには限界があり、努力の割に(学習時間が長いのに)結果が出ないことになる。しかも、短期記憶なので定期試験には多少結果が出るが、学力テスト(実力テストや模擬テスト)では悲惨な結果となる事がある。


学力が伸びる子は問題を考える。
 問題に書いてある事を時には表や図などを書いてわかりやすくまとめていく。問題に必要な事は書き込み、何が書いてあるか、問題文や式の意味だけを考える。

 問題を理解した時に、答を考える子や、解法を考える子が得られない言葉が出てくる。それは「わかった!」である。少なくとも答を考える子は「できた」はあるが、「わかった」はない。

 問題が理解できると、解法が見えてくる。もし解法が見えてこない場合は、その原因を探りそこをクリアすればいい。答や解法にこだわる子はそれが無いので改善されない。できない原因がわからないから、本当の自分の弱点が見えてこないからだ。


 問題を解けるようになるために、自分を変えて真の学力をつけるためには、問題を考えることである。

自分を高める③ 成長を止める“できればいい” [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

私が自動車教習所に通っていた時のこと・・・自分の運転が下手で自動車に乗ってハンドルを握っても自動車をコントロールしている感はなく、なんとなく仮免となり路上の教習も怖くて仕方ありませんでした。「このまま免許を取っても運転できない。」と思い、できる範囲で教習を重ねたいと思っていました。

ところが、ついに次は卒業検定という日がやってきました。教官にあと少し練習をしてから…と言おうとした時に教官が大きな溜息をつき私にこう言いました。「(お前は)どうせダメだろうけど、(卒業検定を)受けてみるか!?」

  「どうせダメだろうけど」にカチンときた私は「受けます。」と即答していました。そして卒業検定後に合否を言い渡されました。また大きな溜息をついて「しょうがないな、数字の上では合格だ!」

 うまく運転はできないけれど、減点法の検定では合格できるだろうと思っていました。教官の言葉があまりにも私にとって酷かったので、「それじゃぁ合格してやるよ。」と思って臨んだ検定は、とにかく、きょろきょろと確認をしまくり、ゆっくりと丁寧にコースを周り、原点されない事だけを考えて運転しました。

 合格したくなかったのに、教官の一言で合格を選んでしまいました。その結果、実際に免許取得後半年間の私の運転は、事故や違反で減点されるようなことは有りませんが、乗るたびにヒヤリハットを多発し、30分も運転すると他のドライバーから必ずクラクションを鳴らされていました。うまく運転できないのに、免許を取ってしまったために何度か大事故を起こしそうになりました。合格すればいい、結果が良ければいいという“できればいい”はその時はいいのですが後になって大変なことになります。


 中学生の数学。宿題チェック。全員を見てまわりますが、どこを見るかというと、それは途中式。答があっているかどうかに重きを置きません。途中式や書き方で、本当に理解できているかどうかをその場で判断していきます。理解していることがわかれば答が違っていても、先々大きな問題にはなりません。理解していない場合は答があっていても、学力の伸びはいずれ止まってしまいます。

 特に計算の理解は大切です。「計算はやり方があってそのやり方通りにすればできる。」と勘違いしている人がいます。計算にやり方などありません。やり方がないから、どんな問題でも複雑な計算でも難しい問題でも解けるのです。式の意味を理解して計算をしている子の途中式は美しい式で、1つ1つの式に意志が感じられます。それは、数字や文字、そして符号の位置からも感じられ、その子の先々も見えてきます。

 “できればいい”と考える子は、答が出ればいいわけですから、途中式が飛んだりなかったりすることがあります。答を創ろうとする子は意味を考えたり理解することをしない傾向が強いと思います。別に意味が分からなくても答が出ればいいと考えているからです。

 そのような人は、問題の数だけやり方が生まれ、やり方を覚えきれずにできなくなったり、問題が少し変わっただけでできなくなるのです。“できればいい”は学力の伸びを止めるとともに、早く正確に答を出すための障害となって行くのです。

 “できればいい”は結果を気にすることから生まれる考え方(価値観)であると考えます。それは周りの人や環境の影響を大きく受けます。結果を重視する学校、先生、家庭、友人などが考えられます。結果次第でその子が褒美をもらえたり、叱られたり、嫌な思いをしたりするケースや、結果でその子自身を判断されてしまう経験があると“できればいい”になりがちです。又、苦手な教科は考えてもわからなくなり、答を創り始めてしまい“できればいい”となる事も有ります。

 どこかで“できればいい”をやめないと取り返しのつかない事になると私は思います。結果を気にしない(結果を恐れない)気持ちを持つためには、結果よりも過程を認める周りの人たちの協力も必要です。努力や頑張りを認めることが大切です。

 そして、意味から考える癖、物事を理解する癖、「何のために」という目的意識、「なに」と意味を考えること、「なぜ」と理由を考えることが大切であることを本人に気づかせ、実行できるように指導していくことが必要であると思います。


簡単な問題はできるのに・・・ [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 知らず知らずに年を取り、以前と同じことが出来ると思っているのにできなくなる。
 少しは上達していると思うので、前よりハードな計画を立てると、とんでもない。途端に体が悲鳴をあげる。そして、病院や整体通い。

 整体で「肩が痛い」と言うと、肩ではなく手や足や別のところを施術し始める。


 勉強も似ているところがある。例えば「簡単な問題はできるのに、少し難しくなるとできない」と言う場合。「それでは、少し難しい問題や応用問題を中心に勉強しよう」は解決に繋がらない場合がある。「できない問題があるから、その問題をできるようにしよう。だからその問題を勉強しよう。」では本当にできるようにはなるとは限らない。それはできない原因がそこかどうかわからないからだ。

このようなケースは、簡単な問題、つまり基本問題の練習が不十分だったり、基本問題を解くプロセスがいい加減だったり、基本的な事の理解が不十分であることが原因であることが多い。しかも、難しい問題ができないのなら、なおさら基本問題を完璧にすることが、自信にもつながり、試験での確実な得点を生み出すのだ。
数学や算数で「計算はできるけど応用問題ができない」と悩むより、「計算だけはできる」と自信を持つことだ。そうすれば、文章題は式さえ作れればOKとなり、『問題文の把握=問題文の理解』をすることで式が自然に生まれることに気が付くと思う。

基本の理解と定着が応用力に結びつくことを忘れてはいけない。うまくいかない時は、どんな時でも「基本に戻る」ことが大切だと考える。

豊かさの提案 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 またまた営業の話。

危機感をあおり、必要性を強調し、高い料金を提示してくる。渋ると別の商品を出してくる。渋らなければ高いものを買わされてしまう事になる。本当にお客が必要なものなのかどうかは関係ない。高く売れさえすれば後はどうなっても構わない。そんな営業の人いませんか。

 同様な学習塾も存在する。危機感をあおり、必要性を強調して、たくさんの授業を提案してくる。教育、まして自分の子供の将来がかかっているとなれば、大金も惜しまず支払ってしまう。本当にその子に必要な授業かどうかは関係ない。たくさんの授業を取ってくれればそれで後はどうなっても構わない。

 押し売り的な営業。売ったら終わり。後はどうなっても構いません的な営業は、日本をダメにする。なぜなら人の役に立っていないからだ。生活の豊かさの提案が無いからだ。

 私は20代の時に、「企業は人に生活の豊かさの提案をするものだ。」と某コンサルタントの研修で何度も何度も言われ叩き込まれた。そのコンサルタントと出会えなければ今の自分は無いと思っている。本当に感謝している。

 色々な子供たちがいる。いぶき学院に期待していること求めていることは、「成績の向上」、「志望校への合格」が90%。あとの10%は、「生活習慣、態度の改善」や居場所(安心や癒し)かもしれない。そして、現状とそれらが何のためかまで聞いていくと、本当に1人ひとり目的が違う。だから我々の接し方や指導法が塾生の数だけ存在することになるのだ。

 グループ指導では10人程度の塾生に同じ話をして、同じ問題を演習させるのだが、1人ひとりへのアプローチは異なるものとなる。

 例えば発問(考え方や解答を聞く)についても細かな配慮が必要だ。1人の塾生に集中してあてる。順番にあてる。ランダムにあてる。挙手させてあてる。考えを聞く。理由を聞く。解答を聞く。プロセスを聞く。その先どうなるかを聞く。絶対に解答できない事を聞く。難しい事を聞く、解答が明確な事を聞く。正解を出していることを確認してあてる。時間を与えてからあてる。発問後に間をおいてからあてる。発問後すぐにあてる。指名しておいてから発問する。全員に聞く。他の塾生の考えについて聞く。説明してから発問する。発問してから考えさせる。考えさせてヒントを出していく。結論を話してから理由を聞く。ノートに書かせてから聞く。など切りがない。

 それらを、その日の塾生の様子も加味して瞬時に判断して使い分ける。なぜなら、1人の塾生も疎かに扱いたくないからだ。彼らはみんな素晴らしい人間であり、将来多くの人を幸せにできる力を秘めている。そして自分自身も喜びを感じていくことになる人間たちだ。だからこそ、それを応援したいと思う。中にはスポーツで生活をしていきたいと考えている子もいる。我々はそれを全面的に支援して、我々のできることをやっていきたいと考えている。

 子供たちは、可能性と夢と希望の種子。我々の役割は発芽させて花を咲かせて実を実らせることだと考えている。

 だからこそ、その子に合わない指導や提案はしてはいけないのだ。その子に合う提案やアドバイスをして、指導していくことで目標が達成され、夢が叶い、限りなく成長していけるようになって欲しいと願っている。そんな人間が溢れかえったら、どんなに日本は良い国になるかと思うと楽しくて仕方がない。

 生活の豊かさを提案できる学習塾でありたい。そのために、嘘をつきたくないし、ずっと正直な学習塾でありたい

苦しい道を選んだ人達③ “あきらめ” [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 小学生の頃、初めて長距離を走った。長距離と言っても校庭を3周程度だろう。いやもっと少なかったかもしれない。距離にすれば500mとか800mくらいかもしれない。すごく苦しくて、同じペースを保つのは大変な事。長距離なので友達と並走する時間が続くときがある。「つらい」、「スピードを緩めよう」、「もうだめだ」、「そうすれば楽になる」と思った時に聞こえてきたのが、友達の苦しい息遣い。「はぁ、はぁ、はぁ」・・・。「あ、苦しいのは自分だけではないんだ。誰だって苦しいんだ。」と気づいた時。友達は後ろに下がっていた。

 それから私は、「苦しいのは自分だけではない」と言い聞かせ、当時のアニメ『巨人の星』にも多大な影響を受け、頑張り合いでは強かった。プールで息を止めて潜っていられる時間を競うようなことも体育の時間にあったが、いつも最後の頃まで残った。中学の野球部時代、中学入学当時の身長が134cmだった私は、足も遅く、非力で投げること、打つこと全てチームメートに劣っていた。180cmもある友達と比べたら大人と子供だ。しかし、チームの誰にも上級生にも絶対に負けなかったことがあった。それは全勝だった!それは、うさぎ跳び。塁間5往復のうさぎ跳びをトレーニングの一環としてやっていた。必ず1番でゴールした。競った時は「彼も辛いんだ」と言い聞かせて頑張った。短距離や力の必要な運動、スポーツは弱かったが、競り合ったら負けなかった。

 私の昔話はどうでもよいとして・・・失礼しました。

 さて、私が言いたかったことは「誰でも辛いんだ、自分だけが辛いわけではない。」。だから「もうひと頑張りしよう。あきらめなければ必ず成功する。」と言うことです。


 しかし、「頑張る意味が分からない」とか「頑張らなくても大丈夫」なってしまう子が目立ちます。


 最大の目的をあまりにも身近に置いていませんか?

 志望校合格が最大の目標になっている場合、頑張らなくても合格できればいいことになります。これは今の受験制度にも問題が多く、大学入試で一般受験をしないでたくさんの高校生が大学に合格しています。もちろん、推薦入試で合格するためにすごく苦労して頑張って入る子もいますが、簡単に入ってしまう子もいます。高校受験でも志望校のレベルを下げて推薦ならば早く合格が決まります。合格が決まると急に生活が楽になります。でも、入った跡が大変なんですよね。

 私立中受験は受験校によって違いますが、難関校に合格することが最大の目標ならば、合格した瞬間その子の人生は終わります。たった12歳の子供達ですから12年間の人生です。ほんとうに大切なことはその後にあるのにも関わらず。合格するために、丸暗記・詰め込み・テクニックを駆使して合格して、その後の人生はどうなってしまうのでしょうか。しかし、合格が最大の目標ならばそれでもかまわないということになります。


 頑張らなくてもよい環境がありませんか?

 親が何でもやってあげてしまう。全て親の管理下に子供を置いて、子供に指示を出す。子供ができないことは、親がやってあげる。せっかくの失敗も親が全ての責任を取ってしまい、子供に失敗したという体験、責任を取るという機会を奪い続けていませんか。それは、我々学習塾や学校にも言えることです。その子に携わるすべての人が、その子が自律できるように方向性を一つにして接していくことが必要です。

 病気やけがや障害を持つ子の場合は、理解してあげた上で接することが必要ですが、うまく自分のことをコントロールできない子の全てが、病気や障害があるとは私は思いません。「この子は体が弱いから」、「この子には障害があるから」と周りで言い続けていたら、正常な子でもそういう気持ちになり、それを言い訳に使うようになります。「僕は体が弱いからできないんだ。」、「私は障害があるから、自分でやりたくてもできないの。誰か手伝って。」

 だからこそ、今までの育った環境や家族の接し方まで考えた上で、本当にそうなのかを判断し、それに応じて適切に対処していくことが、その子の一生をより良いものにしていくのではないでしょうか。


 「あきらめない」・・・「夢を諦めない」、「将来の成功を諦めない」、「子の未来の幸せを諦めない」

 そのために、我々は子供たちの可能性を信じ、「あきらめない」子供達になって欲しいし、子供たちに自律して欲しいのです。

 本人の辛さ、親御さんの想いを考えると、私には諦めることはできません。


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