So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン
前の6件 | -

疎外感と一体感から考える不登校(1) [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 平成29年10月25日東京都から発表された中学生の不登校の割合は3.78%でした。中学生で100人あたり約4人と言うことですが、実際にはもっと多い気がしてなりません。塾生にクラスに不登校の子がいるかどうか聞くと「5人」と答える子もいるくらいです。

 要因として、「不安」、「家庭に係る状況」、「いじめを除く友人関係をめぐる問題」などがあげられています。ところで、「不安」とは何に対しての不安なのでしょうか?なぜ「不安」になってしまうのでしょうか?

 さらに、不登校の問題に対する、『これまでの取組』が述べられているのですが、不登校になりそうな児童、生徒の相談に対応しますとうことは有りますが、ほぼ全ての取組は不登校になった児童、生徒の支援となっています。

 不登校からの復帰率は約25%ですから、不登校になった子の75%は復帰できないということです。


 私は、復帰するための取組は大切だと思いますが、不登校にならない取組により力を入れるべきだと考えています。

 私は、今まで多くの不登校の子と向き合ってきました。そして、その子たちが学校へ復帰する姿、大学受験を目指す姿を見てきましたが、復帰するまでには多くの労力(人手)と時間がかかります。

 不登校になりそうな頃、早期に対応すると不登校にならずに済むことも有ります。

 したがって、早期発見、早期対応がまず大切で、一旦不登校になってしまったら、本人としっかりと向き合い長期戦を覚悟して対応していくしかありません。

 そして、復帰を目指すなら中学生は、定期試験、新学期、新年度、高校入学、大学進学がそれぞれチャンスとなります。ただ、チャンス多く訪れるのですが復帰には時間がかかると考えて下さい。

 確認しておきたいのですが、不登校になった子が悪いわけでは決してありません。同様に、ご家族、ご両親が悪いわけでもありません。不登校の要因として「家庭に係る状況」とありましたが、私がお会いしてきたご家族に悪い人は1人もおりませんでした。けっしてご家族、ご両親は自分自身を責める必要はありません。

 私は不登校が問題ではなく、問題は不登校になった原因だと考えています。

 そこを解消しないと、今後の社会生活に支障が出るかもしれないと思うからです。

 そのためには、原因の究明と、ご家族やご両親の変化が必要になると考えます。

 過去の自分は変えられませんが、未来の自分は変えることができるからです。


※この話はデリケートで、しかも個々の事情が異なるため、私の話が当てはまらないかもしれませんので、その場合はご勘弁ください。


コメント(0) 

疎外感と一体感 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

9月から12月には、多くのイベントが開催され、大井町から教育を考える会の相談会もそのうちの1つです。いぶき学院のイベントもあり、休みがあまり取れないのが当たり前となっています。

心身ともに疲れはしますが、そこで多くの人と出会い多くの事を学ぶことで、新しい発想につながっていることは確かです。体を労わりつつ、引き続き色々な方のお話をおうかがいしていきたいと考えています。


ところが、イベントの中には「もう2度と参加したくない」と思うものもあります。もちろん「また必ず参加したい」と思うものもあります。

この違いはどこから来るのだろうと考えてみて、たどり着いた結論は、“疎外感”を感じるか、“一体感”を感じるかということです。

全てがオープンで出席者全員が参加者になるような会は“一体感”を感じることができます。


たとえば、会場(受付)に行くと、顔を見るなり元気良く「こんにちは」と挨拶され迎え入れられる。礼儀とけじめと感謝の気持ちが伝わってくるイベントです。

そのためには、運営サイドが統一された目的持っていること、責任の所在が明確で指示系統にぶれがないことが必要かなと思います。

大げさな話になってしまいましたが、友達と会って少人数で食事をする場合でも、自分の知らない人がいると、紹介してもらうか自己紹介し合うまで、私はなかなか打ち解けることができません。そこにいる人がどういう人なのか分かると気が楽になり、全員で盛り上がれるようになります。

また、良くやってしまうことですが、同郷の人だと分かると、その人と自分しか分からない話をしてしまいます。しかも、互いに知っている話は楽しく、しばらく2人だけの会話になってしまうのです。

そうすると、周りの人に“疎外感”が生まれてしまいます。“疎外感”が生まれないようにするには、周りの人に「実は彼は同郷で、しかも実家が近所なんです」と説明をします。そして、2人の会話に解説を入れつつ話を進め、時には「あなたの故郷ではどうですか」と振ってみると、みんなで盛り上がることができる話があるはずです。

でも、つい2人だけの会話になってしまうのです。


以前、御茶ノ水でラーメン屋さんに1人で入った時のことです。ドアを開け、空いている席が奥の方に有ったので入って行きカウンターに座ったのですが、「いらっしゃいませ」もなく、水が出てくるわけでもなく、注文を聞かれることもなく数分経過しました。凄く寂しい気持ちになり外に出たことがありました。そこで感じたのは“疎外感”でした。


自分を受け入れてくれない。解ってくれない。無視されている。存在自体に気がついてくれない。見向きもしてくれない。こんなに頑張っているのに・・・。

“疎外感”ほど辛いものは無いかもしれません。

誰でもこの世の中に必要な存在で、役割を持って生まれてきたのは間違いありません。ですから、疎外される理由は有りません。自信を持って生きていきたいです。

そのためには、今在る自分は多くの人に生かされているという現実を受け止め、自分に関わる人達に感謝の気持ちを持って人と接していくことだと考えます。

「ようこそ」、「こちらこそありがとう」
「これからもよろしく」、「こちらこそよろしく」


どんなに立派なイベントであったとしても、そこには人と人とのつながりがあるはずです。大切なのは、何をやるかではなく“一体感”ではないでしょうか。

イベントに行くか行かないかの判断は、『何をやるか』ではなく『誰がやるか』で判断している自分がいます。

少なくとも、私は常に感謝の気持ちをもって“一体感”を感じ、みんなと共に過ごしたいと思います。


コメント(0) 

“結果”はついてくるもの、出すものではない [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

小学生は中高生と比較して答えが正解かどうかを気にする傾向が強いと感じます。

宿題を出すと、ノートが解答欄となっていて答えしか書いていないことがあります。「計算はどこにした。」と聞くと、「別の紙にやった。」と言う子もいます。

しかし、いぶき学院の小学生で算数の宿題を答えだけしか書かない子を現在は見かけません。入ったばかりの時は答えしか書いていなかったり、途中式を書いていなかったり、横に「=」を書いていく子もいますが、数か月でノートの書き方が変わってきます。

式を書き途中式も入れて答えを出すという流れは、どんな場合においても不変なものです。それを小学生の頃から身に付けて、長い年月積み重ねると大きな差が生まれるのです。

又、大切なことは“答えを出す”ことではなく、“答えを出すために頑張る”ことであるという意識にもつながります。


先生や親、家族が、“結果”しか見ないで、“頑張り”を見ていないと、子供は当然やる気を失います。

答えを出すことを第一と考えるので、式も途中式もありません。目的も理由も考えません。周りも先も見ません。目の前の“結果”を出して親に認められる(褒められる・叱られない)ことしか考えなくなるからです。

“頑張り”は、やがて“結果”を出します。もちろん“結果”が出なくても“頑張り”続けることで人は成長し、気にしていた“結果”はどこかに行ってしまい、そこには“頑張った”という何にも代えがたい“結果”が残ると私は思います。

コメント(0) 

宿題が終わらない [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

「自分の子供(小学生)に宿題が終わらないから学校へ行かない。」と言われたらどうしますか。

「学校へ行かない」は親にとって辛い言葉かもしれません。

宿題は何のためにやるのでしょうか。

それぞれお考えがあると思いますが、最近(?)、宿題をやってくれるサービスがあります。読書感想文や論文も書いてくれます。そこの企業に依頼して宿題をやってもらうことも一つの手かもしれません。

宿題をやる目的が学校で叱られないためとか、成績を下げられないため、合格するためであるならば、第三者にやってもらえば済むかもしれません。

しかし、その先を考えた時その子はどうなってしまうでしょうか。

時と場合によって宿題の目的は異なりますが、主に学力の定着や学力をつけるためと考えられます。そこを目的とすると、やってもらうという選択肢はありません。

教えてもらうは残りますが、これもやってもらうに近いかもしれません。と言うことは誰にもやってもらわず、教えてもらわず自分で考えてやるしかありません。間違っていても構いません。

宿題を出す側としては、頑張って考えて出した答えが違っているならば、そこを分析して指導できるので、むしろ間違ってくれた方が良い時があります。適当にやってこられるのが一番困ります。それが正解でも間違いでもです。

又、宿題の目的が頑張らせるためであることがあります。この場合、正解かどうかとか出来栄えはあまり重視されませんが、終わらなければ学校や塾で、それなりの結果が待ち受けていますので、それを自分の責任として受け入れることになり、それが次につながります。

いずれにしてもやってあげることは良い方向に結びつきません。


ちなみに、小学4年生に「大人になって、パパ、ママになって、自分の子供に宿題が終わらないから学校へ行かない。」と言われたらどうすると聞いてみると、返答は「無理やりにでも学校へ行かせる。」、「次から早く宿題をやるように言う。」でした。 


子供達は自分でやらなければいけないことを知っていて、「宿題が終わらないから学校へ行かない。」と、親を利用するのです。

「自分の宿題は自分でやりなさい。終わらなくても学校へ行って、先生に終わらなかったことを自分で言いなさい。」、「一生懸命にやる事が大切なんだよ。」、「1人でできると信じているよ。」と言い、終わった時は頑張った事や信じていたことを伝えてあげます。

終わらなくても一生懸命にやろうとしていたならば、それについて「よく頑張ったね。」と言えるはずです。そして、学校へ行って先生に自分で言った時「ちゃんと言えたね。」と言うことができます。

子供の頑張った事、逃げたり諦めたりせずにやり遂げようとした事、自分の責任を自分で取った事に焦点を当てて、親の気持ちを伝えましょう。

「自分でできると信じていた。私は嬉しい。」


子の成長を見ることは親にとって嬉しいものですよね。


コメント(0) 

ありのままの自分をぶつける [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

この年になると体のあちらこちらがおかしくなるもので、病院と整体(マッサージ)が欠かせなくなっている。マッサージは誰がやっても同じと言うことは無い。

ただ「背中を押されているだけ」と感じることもあるし、「気持ち良かった」とか「楽になった」と感じることもあるが、施術後に明らかに体の調子が「良くなっている」ことがわかる時もある。

学習塾や学校の授業も授業後に明らかに学力がつき、それが実感できるものでありたいものだ。


今までも何度も書いてきたことだが「授業は難しい。まだまだ未熟だ。」と思う。

20代の時は3回に1回上手くいけば上出来と思っていた。上手くいくというのは塾生が「なるほど!」と解る授業のことだ。

しかし、今はそれを満足のいく授業とは思えない。今の私が満足のいく授業だと思えるのは年に数回あるかないかだ。

満足のいく授業とは塾生に変化が起こる授業だ。教科に関わらず学習内容を理解し身に付く過程において、人間的成長が見られた時にそれを満足のいく授業と言うことができる。

そのためには、塾生1人ひとりのその時の状態(理解力、理解度、精神状態、健康状態)をこちらがどれだけわかる事ができるかが重要だ。その状態によって、授業の組み立てや話す内容(例や問題)を変えていくからだ。

言葉や言い方、話の強弱やリズムも変える。発問のタイミングと内容、塾生の誰に聞くのか全員に手を上げさせるのか、考える時間と演習の時間と自分の話す時間も秒単位で調整していく。立ち位置や板書なども状況に応じて変えていく。

授業内の全てのことについて目的を持ってやっているかどうかが重要だ。

授業が終わった時、やり切った感があるのは良い時だ。心地よい疲れを感じる。


それでも、得点や成績等の結果が出なければ、ただの「自己満足」かもしれない。

私は塾生がいぶき学院に来てから帰るまで、将来幸せになって欲しいと考えて接している。それが私の目的で、それが志望校合格や成績アップ、学力向上につながり結果が出ると思う。

目の前の試験で得点を取る事を目的とすると、本当に大切なその後が疎かになる。塾生達が本当に大切なものを目指して今を精一杯頑張ることで、結果を出してもらいたい。

そのためには、ありのままの自分を塾生にぶつけていく。勉強についても、大切なそれ以外についても、今私のできる精一杯を出し切り真摯に向き合っていく。

それが人の一生を左右する仕事をする者の責任だと考える。


だから授業において私は、満足のいく授業を目指し頑張る。

もちろんその満足レベルを上げていくため、一生「授業は難しい。まだまだ未熟だ。」と思い続けることになる。おかげで私は一生成長できる。

今自分のできる最高の授業(受けて得する授業・受けないと損をする授業)を1回1回積み重ね、授業のレベルと自分の人間としてのレベルを上げていきたい。

コメント(0) 

不思議への寄り道 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

志望校合格が目的であるならば、合格をするためにどうしたらいいかを考え、その最短距離を目指すことが合理的かもしれないが、私は不思議を大切にして少し寄り道をしたい。

合格の先にあること、人の成長と未来の幸せを考えるとこちらの方が合理的だと考えるからだ。


受験生の授業はどうも面白くない。

身の回りには不思議が一杯で「どうしただろう」、「なぜだろう」が沢山ある。

もちろん、学校の勉強の中にも不思議がいっぱいだ。

ところが受験を控え、塾生が不思議に思っていることでも、興味があることでも、『学校の試験に出る出ない、都立入試に出る出ない』を優先せざるを得ない。

「これは出るからね。」、「ここまでは必要ないから。」となってしまう。

それに対して中学受験をしない小学生は、受験や試験に邪魔されず、不思議一杯の世界を堪能できる。しかも教えない授業をしていると、教科書に書いていない考え方や発想が飛び出してくる。

説明をさせると、日本語の使い方がおかしかったり、説明が不十分だったりしても、何を言わんとしているかはわかるので、それを受け入れてあげると次から次へとそれらは出てくる。

こちらが教えてしまえば新しい発想は出てこない。

こちらがわかってあげなければ新しい発想を出そうとしない。

教えず、わかってあげさえすれば、子供の可能性は本当に無限大であると気づかされる。

出てきた発想をみんなで考え意見を出し合う。そして「なるほど」が生まれるのだ。


『試験』は時に、自分を奮い立たせてくれたり、自分の学力向上に役に立ったり、自己成長にもつながる。

しかし、自分の中にある不思議を無視して結果を追い求めることは、試験の結果しか得ることができないかもしれない。


先にある大きな夢を実現するために、我々は全ての事から学べる事を知り、物事の見方考え方を変えて新たな発見を積み重ねることで、未来を創造していきたいものだ。

コメント(0) 
前の6件 | -