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自分の目で“盗んだ”ものは絶対に忘れない [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

自分の目で“盗んだ”ものは絶対に忘れない

 プロ野球で活躍した某選手の記事の中で、「教えられたものは忘れてしまうことがありますが、自分の目で“盗んだ”ものは絶対に忘れません。」と言っているのを目にしました。

職人や料理人の世界などに弟子入りすると、教えてもらえず自分で先輩の技術を盗んで自分の腕を磨くという話を良く耳にします。そのような研修(教育・指導)をされている方もいらっしゃると思いますが、全てにおいて何でも教えることが主流になっている気がします。

 たとえば、料理人が先輩から教わり、その店の味を出せたとしても本物の味と言えるでしょうか。教わらないで、自分なりに研究と実験を重ね失敗の中からたどり着いたその店の味ならば、その味の本質を身に着けたことになると思います。文字や言葉でやり方を教え、それを覚えて出した味には本質はありません。結果的に同じ味になるとしても、自分で「これだ!」と見つけ出した味はその店の味であるとともに、その人のものとなった味であると思います。そこにたどり着くためにはもちろん、周りからヒントをもらったりするかもしれませんが、本質的な部分は自分で見つけるしかないのだと思います。

 先生が話したこと、解説に書いてあることを聞いてその通りにやることは、“真似”であって、“学び”ではないと思います。

我々は「いかに教えないか」ということを考えて授業をしています。それは勉強の芯の部分、問題の本質的なところは本人たちに気づいて欲しいからです。教えるだけなら時間もかからず楽に授業はできますし、子供達も教えてもらえれば、“その場では楽にできる”のです。しかし、すぐにそれらは忘れ去っていく先生の“真似”にすぎません。

 “学ぶ”ためには、答えを出すということはただの目標であって、そこに行きつくための道程が大切であることを忘れてはいけません。特に『みる』ことは重要です。先輩の技をみる。味をみる。患者をみる。問題をみる。みることが「これだ!」、「そうか!」、「わかった!」につながるのではないでしょうか。

 「自分の目で盗んだものは絶対に忘れない」その通りだと私は思います。 

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勉強大嫌いⅡ 「やる気が起きない嫌いなものを“勉強”と言う」 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 「どんなに環境を整えても、どんなに勉強をせよと言われても勉強をやる気にならない」と思います。それがきっかけとなって、やり始めることもあるとは思いますが、やる気になるための条件としては弱いものだと私は思います。

 例えば、親が勉強部屋を用意して、参考書とか問題集などの教材を買い与え、規則正しい生活や食生活にも気を使い、時には勉強の面倒もみたりする。家族旅行や家庭団欒を犠牲にして、家庭ではテレビもつけず、音楽も聞かず、全てを本人の受験勉強のために考えて行動したとして、本人はやる気になりますか。

 お母さんお父さんは、良い環境で勉強していましたか?良い環境だからやる気になりましたか?

 私は、中高生の頃は毎日部活動とプロ野球観戦(テレビとラジオ)漬けでした。宿題はやったと思いますが、予習復習などはやりません。ただし、普段勉強をしていませんでしたので、試験前だけは頑張ったつもりです。自分の部屋が無かったので、4畳半の茶の間で勉強していました。家族が帰って来ると茶の間なので家族がテレビを見始め、煙草の煙が充満する中で勉強しました。本格的にやり始めるのは、家族が寝た後ですから午後11時過ぎからです。洗面器に水を汲んでおいて、眠くなると顔を水で洗いながら勉強をしていたことも有りました。ただし、本当に試験前だけでの勉強でした。

 お母さんやお父さんも不十分な環境でも勉強をした経験があると思います。学校の勉強だけではありません。家事や仕事も同じです。道具や機材、資金や場所など不十分な状況でも、工夫して乗り切ってきたのではないでしょうか?

 やる気があるならば、どんな劣悪な環境でも勉強をするはずです。

 ただし、本当はやりたいのにできないケースもあるはずです。道具が無い。教材が無い。家庭では学習できる状況(兄弟がうるさい・場所がない・ゲームをやってしまう・寝てしまう)がない。既に学校でやっていることがわからない。勉強法がわからない・・・等は環境を整えると解決することは有りますが、そこを言い訳として勉強をしない子もいることも確かです。そこをきっちり見極めた上で親は適切な対応をすることです。学校でやっていることがわからない、勉強法がわからないについては学習塾が力になれるかもしれません。

 ですから、親が環境を整えたり気を配ったりするのは、本人がやる気になった時のためであり、やる気にするために整える(やる気にする有効手段)という考えは違うことになります。
そもそも嫌いな“勉強”に対してやる気になるわけがないのです。
そう考えると、やる気にならせるのではなく、勉強をやり始めさせる手段を講じるしかありません。

つづく


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勉強大嫌いⅠ 「誰だって勉強なんかしたくない!」 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]

 「やる気が起きない嫌いなものを“勉強”と言う」のではないでしょうか?

 好きな事をやっている時に“勉強”をしていると思いましたか?

 好きで楽器を演奏している場合、それを“音楽の勉強”をしていると思いましたか?料理やお菓子を作っている時、“家庭科の勉強”をしていると思いましたか?野球、サッカー、テニス・・・等スポーツをやっていてそれを“体育の勉強”と言いますか?

 私はスポーツが好きで色々なスポーツをやったり見たり、本を読んだりしましたが、少なくともそれを“勉強”しているとは思いませんでした。“勉強”になっているかもしれませんが、それは楽しいからであり好きだから“勉強”とは思っていません。

 これまた私事ですが、小学生時代は毎日毎日遊び、好きな事をやっていましたが、その時に学んだことは学校の勉強にも役に立ち、今でもその時の体験から学んだことをいぶき学院の授業で話しています。例えば、動物や植物の事、物づくりについては木工から電気や機械の事、自然現象については風や雲や雷などは、遊びから得た知識で机に座って身に付けた事ではありません。

 私の場合、結果的にそれが理科などの自然科学、技術や美術や家庭科というものづくりの教科に、体育でも野球やサッカー、水泳などには役立ちました。本も好きで1日1冊ペースで読んでいた時期も有りましたが、「これは国語の勉強だ」という意識で読んではいません。作文や感想文も好きで先生から書けと言われても、嫌ではありませんでしたから喜んで書いていました。「表現力を付けるため」などという意識は微塵も有りませんでした。

 絶対的な事があります。誰でも好きな事は身に付く(得意である)。誰でも好きな事は面倒でもやる。「好きこそものの上手なれ」なんです。

 そして、好きな事をやっていることは、それについては詳しくなり上達もするのですが、“勉強”したとは思わないのです。本やインターネットで読んだことや誰かから聞いた話、経験したことについては「勉強になった」と言うことも有りますが、本当に役立つ情報については“勉強”したというよりも参考になったとか役立ったという感じではないでしょうか。

 ですから、嫌いな“勉強”に対するやる気なんか起きるわけがないのです!

 それなのに「やる気を出せ」と周りから言われても、出ないのが当然です。だって勉強嫌いなのですから、やる気になる事は土台無理な話です。

 でも、やる気は出なくても勉強をやり始めることは可能だと思います!

つづく


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『優性と劣性・顕性と潜性』 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」]


「親の形質が子に伝わることを遺伝という」
 
 日本遺伝学会が9月に新しい用語集をまとめ、誤解や偏見を生みやすいという指摘から、親から子へ伝わる形質が現れやすい優性の形質を顕性(けんせい)の形質、現れにくい劣性の形質を潜性(せんせい)の形質と言い換えています。

 理科は“言葉の概念を理解する”教科です。今までも理科の用語が度々変わってきましたが、大切なのは用語(言い方・言葉)ではなく意味なのです。

 理科は「暗記教科だ」、「理科は暗記すればできる」と勘違いしている人もいると思いますが、言い方は変わっても本質を変わりません。

 遺伝の単元で用語を覚えて得点しても、「なぜ親の形質が現れる場合と現れない場合があるのか?」、「なぜ両親の形質が現れない子ができるのか?」がわからなければ遺伝を理解していることにはなりません。
  
 遺伝の概念を理解していればOKであるにもかかわらず、依然として用語を知っているかどうかの試験には疑問を感じます。

 教科書の太字に惑わされず、その裏に隠れている本質を理解していくことが、本当の学びであることを我々は忘れてはならないと考えます。

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日馬富士の引退に思う [◆徒然なるままに 「自分らしく生きる」]

日馬富士が引退。
大相撲ファンの1人として、賛否両論あると思いますが私の思いを述べさせていただきます。
事の真相が明らかになる前であり、鳥取県警の捜査、相撲協会危機管理委員会の調査結果も出ていない。番付編成会議が29日にあるとはいえ、日馬富士自らの決断に早すぎるという思いと、残念であるという思いと、釈然試しない思いが入り混じっている。
暴力は行けないことは間違いない。そして、横綱としての品格の問題も当然ある。しかし、日馬富士の引退、特にこのタイミングでの引退を喜ぶ人がどれだけいるだろうか。「仕方がない」、「当然だ」と言う声はあるだろうが。「やったー、嬉しい!」という人は果たして何人いるだろうか。被害者である貴ノ岩の気持ちを察すると複雑な思いであろう。来場所土俵に上がる時、どんな思いで上がるのだろうか。関係者の皆さんも辛いことではないだろうか。
日馬富士は先場所、1人横綱として大逆転優勝を成し遂げた。あの場所は次々と横綱が休場となり、日馬富士自身も万全でない中で休場ができない状況に追い込まれ、15日間相撲を取り続けた。本当に辛かっただろうと思う。
その日馬富士が今回の騒動で、まだ調査中でありながら引退に追い込まれたということは、よっぽどのことではないかと思う。
私は、日馬富士を擁護する気はないが、本来、相撲協会にしても横綱審議委員会にしても力士を守るべき組織ではないかと思う。団体のトップはそれを組織する人たちを守るのが役割の1つであり、処罰することが目的ではないと思う。真実を究明し今後同様のことが起きないようにすること、悪質であるならばそれなりの処罰をすることは当然のこととして、それが、真相も解明されない段階で日馬富士を守り切れなかったことは、誰にとっても良いこととは思えない。真相が明らかになった上での引退勧告となるならば仕方がないし、納得もできる。それは今後につながるからだ。
又、日馬富士の引退は、巡業中に起きたことであるので、巡業部長の責任は当然。相撲協会、横綱審議委員会の責任もある。そこを蔑ろにしたまま、日馬富士が引退となり、彼1人に責任を負わせてしまう結果になったとしたら、力士たちは安心して相撲を取ることができないのではないか。相撲協会は厳しいことを語り、脅し、罰を与えるための協会ではないはずだ。力士たちの良い理解者であり、守り育てるのが相撲協会ではないだろうかと思う。

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